日別アーカイブ: 2011/03/11

非常食

f:id:NEKOTAten:20110311173027j:image

以下、長いんですが、11日の自分の足取りを記録しておきます。

劇場を出たのが15時20~25分ごろだったと思います。

出てすぐ目にしたのは、近隣のビルにいた人がみんな道路に出てきているという状況でした。会社によっては、全員ヘルメットをかぶり、非常持ち出し袋を背負っているところもあります。これでようやく、事態の大きさが少しわかった気がしました(でも、まだ全然理解してなかった)。

劇場内で小耳にはさんだところ、地下鉄とJRが止まっているようだったので、とりあえず銀座駅方面へ歩く。軽い余震が断続的に続いているのは、地上を歩いていても分かりました。だもので、ビルに戻れない人たちがみんな道路に出ていて、ごった返し状態。ただ、全体的には楽観的な雰囲気に感じたのは事実です。「電車動かないんだから、お茶(もしくは酒)飲んでこうぜ」って人も多かったし。本気でやばいと思ったのは、三越前の交差点についたときに「東京湾岸に大津波警報が出た」という防災放送を聞いたときです。これが15時40分ごろだったでしょうか。とにかく、早く新宿まで帰りたいと思いました。

演舞場を出るときに、とりあえず夫に電話しましたが、2回に1回通じるという状況。Cメールがダメで、むしろ携帯メールのほうがつながりやすい状態。私の携帯は古いので、いたずらにワンセグにつなぐと電池が一瞬でなくなるのでワンセグは自重して、夫に逐一携帯メールで状況を送って貰うことに(こちらからセンターにアクセスしないとメールを受信できない)。自分の状況はツイッターで逐一足跡を残すという形で連絡を取りました(ただ、ツイッターは16時の間に送ったツイートは反映されていなかった。多分、携帯メールが混線していたんだと思います)。

16時ごろ銀座駅につき、営団地下鉄が「再開のめどは立っておりません」とのアナウンスを聞いて、とりあえず東京駅まで行こうと(夫が東京駅から新宿まで出ているバスがあるというので。でも実はなかった)。で、16時20分ごろに東京駅の八重洲南口方面に着。この時点で、JRが全部止まって、高速は通行止め、都バスは動いてるが渋滞で進まないことを知る。とりあえず夫から「高い建物に行け」と言われたんですが、大丸はさっさとシャッター下ろしちゃったし、土地勘ゼロなのでビルとか全然分かんない。途方に暮れてしばらく適当なところでしゃがむ。

で、水と食べ物調達しとかないと…って気付いたのが、17時ごろ。うろちょろ歩いて駅構内に1軒だけ空いていたコンビニに並んでジュースとチョコレートを買い(ほとんどのキヨスクが店を閉めていて駅弁とか買えない。このお店もパン系の軽食は売り切れていて、お菓子がちょっとだけって状態でした)、黒塀横町~キッチンストリート~北町ほろよい通りあたりを中心に、あったかそうなところを探しながら電車の再開を待つことに。その時に、駅構内に設置されたテレビでNHKニュースを見て、ようやく事態を把握したという状態でした。

で、21時ちょっとすぎに都営三田線、大江戸線が動いたとのアナウンスがあったので、まだ京王は動いてないもののとりあえず、大手町~春日~新宿西口のルートで帰ることに決めたのが21時半ごろ。

22時ごろに大手町から乗って、新宿についたのが23時15分ごろ。どれも10分間隔程度で運行してくれていて、ちょっとしんどい通勤列車程度で帰れました。その間に京王も再開したと連絡があったのですぐに京王に向かったのですが、もんのすごい人出で恐れをなして(混雑状況を写メってる人多数)、とりあえず都庁がロビーの一部を開放していると夫が教えてくれていたので、都庁へ行き時間をつぶす。

本当は朝までいようと思ったけど、段ボールしか配給されずかなり寒かったのと(それでも足を伸ばして座れたのと、トイレが使えたのでありがたかったですが)、京王線が終日運転してくれるとのアナウンスがあったので、2時間で切り上げて京王線へ。各駅のみで約10分間隔での運行だったので、1本遣り過ごして座席に座り、50分ほどで府中着。

お腹ぺこぺこで、24時間の松屋かマクドナルドに行くつもりでしたが、どっちもクローズ。駅から一番近いコンビニも弁当類が軒並みなくなっており、泣く泣くちょっと歩いたコンビニで弁当を買ってようやく家に着いた…というわけです。夫は寝ないで待ってくれているのかしら…と少し期待しましたが、寝てました。しかも、玄関の電気も消されてた(ちょっとさびしい)。

ビーフヘレカツサンド

f:id:NEKOTAten:20110311153421j:image

新橋演舞場で行われている三月大歌舞伎を観に行っていました。

演目は、「恩讐の彼方に」、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の”御殿”と”床下”、そして「曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」の”御所五郎蔵”でした。

「恩讐の彼方に」は菊池寛の小説が原作で、本人の手によって戯曲化されているそうです。中間市九郎後に僧了海に松緑、その妾お弓に菊之助、父の仇討のために市九郎を探す中川実之助に染五郎、了海をかばう石工頭岩五郎に歌六という配役。松緑も小説のイメージ通りですごく良かったけど、菊之助扮するお弓の悪女ぶりが際立って印象的でした。根っからあくどいなぁーって感じ。

舞台となっている”青の洞門”は大分県の耶馬渓というところにあるのですが、夫の実家に行った際に連れて行ってもらったことがあり、了海さんの偉業を実際に目の当たりにしているので、最後のシーン、ことのほか興味深く見ることができました。小品ですがなかなか良かったです。

「伽羅先代萩」は”六世中村歌右衛門十年祭追善狂言”と銘打たれての上演。六世歌右衛門の一番の当たり役である政岡を子息の魁春が務め、八汐に梅玉、栄御前に芝翫、沖の井に福助、澄の江に松江、松島に東蔵、男之助に歌昇、仁木弾正に幸四郎、という配役。

有名な”飯炊き”も見ることができたのですが、いやあ、このシーン、確かに長い。イヤホンガイドの小山觀翁さんが「このシーンはあくまで、町人が、お武家さんが飯炊きするんだったらこんな感じかな? と勝手に想像して作り上げたもので、ホントにこうだったかは不明です」と言ってましたが、茶道具を使って飯を炊くんです。なかなか不思議な感じがしましたねぇ。

“御殿”は現代的な感覚で見ると結構理不尽な話でして、素人の私が見ても政岡のデキにかかっているお話ってのはよく分かりました。私は六世歌右衛門を全く知りませんが、魁春さんの舞台、素敵だなぁと思いました。あと、八汐をやった梅玉が顔怖すぎ。

女だらけの話だった”御殿”から一転、”床下”になるとガラッと雰囲気が変わります。短いながら見どころの多い話なのですが、とくに仁木弾正がスッポンから出てきて花道を退場していくシーン、”差出し”といわれる古い照明を使うんですが、すごく不気味な雰囲気が出ていてよかったです(下記リンクに、リアルプレーヤーでの動画あり)。退場するに従って、仁木弾正の影が幕に大きく映って印象深かったです。

お昼は、「恩讐の彼方に」が終わった幕間にビーフヘレカツサンド。

で、最後の1本、「曽我綉侠御所染」が始まり、御所五郎蔵扮する菊五郎が朗々とツラネ(長セリフ)を語り始めた途端に、地震が来たんでした。舞台は14時45分から始まっているので、14時50~55分くらいに最初の揺れを感じたと思います。

私は三階席の一番後方におりまして、最初は「三階だからこんなに揺れるのだろう」と最初は思いましたが、止まらないんですね、揺れが。しかし、舞台では菊五郎丈が何事もなくツラネを続けている。正直どう動くべきか悩みましたが、一番端の席に座っていたこともあって、荷物をまとめて通路に出ました(前後左右に大きく振られる感じの揺れ方で、ちょっと怖かったです)。結局、15~20分くらい、大きめの揺れが断続的に続いたと思います。

舞台はそのまま続いていたのですが(なので、最初は1階は気付かない程度の地震だったのかなと思ったのですが、福助丈のブログを見ると違ったようで…。役者さんの肝の据わり方には感服させられました)、劇場内は電波を遮断しているので、揺れが収まらずごく軽いパニック状態になった三階席のお客さんを中心に、携帯で状況を確認するために次々通路に出られるという状況。最初は松竹の職員も「席に戻ってください」と言ってましたが、最終的に幕が引かれ、しばらくして、菊五郎丈、吉右衛門丈が並んでご挨拶(「またゆっくり見れるお日にちに改めておいで下さいませ」みたいなことを言っていたかな。あやふやです)という形で公演中止となりました。

でも、私は、この時点で分かっていた情報は、「仙台の方でかなり大きな地震があったらしい」「東京も震度5あったみたい」「電車が一部止まっているみたい」のみっつだけで、こんな大きな事態になっていたとはつゆほども思わなかったのでした。なので、元々この日は観劇後に水道橋にある店に寄って帰ろうと予定していたので、「じゃ、水道橋に寄って帰るか」なんてアホなことを思いながら、劇場を出たのでした。知らないって怖い。そして愚かだ。

煮こごり

カテゴリー: つくる | 投稿日: | 投稿者:

f:id:NEKOTAten:20110311082318j:image

2月27日から記事をため込んでいるのですが(これを書いているのは3月12日)、いろいろ優先的に書くことがあるので、ここから書き始めます。

で、この日の朝ごはんは、ほんのちょっと残っていたベビーホタテで味噌汁。チンご飯に煮こごりのっけ。これ食べて大慌てで外出する。